2013年1月 4日 (金)

本の紹介:普天間を封鎖した4日間――2012年9月27日~30日

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本土のメディアが伝えなかった沖縄市民の普天間基地の封鎖

 

2012年9月9日、おスプレー配備を拒否する沖縄の人々は10万1000人の沖縄県民大会を開きました。

この10万1000人のすさまじい抵抗にもかかわらず101日おスプレーは普天間基地に配備されました。

 

しかし、配備される前日までの4日間、本土ではほとんど報道されることのなかった歴史的な出来事が、普天間基地の3つのゲートで起きていたのでした。

 

それは、沖縄の人々が4日間にわたって普天間基地を封鎖したという事です。その時沖縄を直撃した台風の中、人々は警官隊、基地警備員とその背後に立ている米軍に立ち向かいながら、さまじい抵抗をつづけ野嵩ゲート、大山ゲート、佐真下ゲートの前に車を止め、警官隊のごぼう抜きに抵抗しながら座り込み、最後の22時間はこれら3つのゲートを住民が実効支配(つまり米軍を基地内に閉じ込めた)したのです。たった4日、されど4日!基地を支配下に置いたのです。

そしてなんと、この重大なニュースを私たちは殆ど知らなかったのです。

 

これを高文研が歴史の空白を埋めるために、本にしました。

 

元名護市会議員で現在はデザインと執筆活動を続ける宮城康博氏と、フリージャーナリストの屋良朝博氏がリアルタイムでフェイスブックとブログで伝えていたものに手を加え、メディアが伝えなかったものを伝える本です。

 

沖縄の熱い怒りと悲しさに満ちた、しかし歴史に残る誇り高き沖縄の人々の記録です。

 

普天間を封鎖した4日間――2012927~30

 著者:宮城康博・屋良朝博

出版:高文研 ISBN9784874984987

 1100円+税

 

2012年11月22日 (木)

被災地に行って来ました。みて来ました。――飯舘村の田圃の除染

飯舘村では今田圃の試験的除染が行われています。

田圃の表面を30㎝の厚さで重機で削り取り、それを裏返しにするのです。

セシウムは深さ5㎝のところにとどまりそれより深く入らないという性質を利用したものです。

確かに理屈としては成り立つでしょうけれど、水田の深さ30㎝のところに高濃度の放射線物質が居座ったままお米を作るというのはどういうものなのでしょうか。これが安全と言えるのでしょうか。

とにかくこの実験田では放射線防護服を着た人たちが重機を動かして、丁寧に地表をはがしていました。

他の草ぼうぼうの田んぼや畑と、このきれいにはがされた田圃のコントラストに、ちょっと頭が混乱する感じでした。

少なくともこんな方法で作られたお米は、気持ちが悪いですよね。

これは政府の実験で、村の人たちはこぞって反対しているそうです。

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2012年10月30日 (火)

被災地に行ってきました。見てきました。―― 飯舘村

今回のたびの最終日で、一番緊張する日。

私は、事前に何人かの方に飯舘に行くことについて、ご意見をお聞きた。

その結果、どうしても行かねばならない用事があるのでなければ、止めた方がよい。どうしても行くならゴム底の靴ははかないこと。車はレンタカーをすることという注意を受けました。

大槻栄子さんの運転で福島県飯舘村に向かう。栄子さんの友人で福島氏にお住まいのIさんも一緒だ。

Iさんはお仕事柄行政との繋がりもあるので、飯舘についての事の事前にお願いしておいた。

Iさんも飯舘は行かない方がいいから避難してきている方にお話が聴けるようにアレンジしておこうということにして下さっていた・・・と思っていました。

飯舘村役場は隣接している福島市の飯舘に近い所の福島市の施設に間借りしています。

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2012年10月25日 (木)

行ってきました。見て来ました。――伝説のための仕事。浅田次郎氏のお話--

「被災地東北の旅行」の途中ですが・・・。

 先日京都で、ペンクラブ会長の浅田次郎氏の「チェルノブイリ報告」という講演を聞く機会がありました。

 浅田氏が最近行かれたチェルノブイリ原発とウクライナで見聞きされたことのお話です。

 その中で氏は、実際に石棺と呼ばれる爆発したチェルノブイリ原発を、コンクリートで覆ってあるところを見に行ったことに触れ、次のような指摘をされました。

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2012年10月22日 (月)

行ってきました。見て来ました。《その7》――女川原発――

2012_220_2  激しく津波の襲われたことが見て取れる女川町を通り抜け入り江の奥の切り立った山に入って行きます。

海岸は激しい地盤沈下の跡があり、松の木が何本も海に浸かっていました。

家も沢山流された跡がありました。

道路沿いの大きな岩に、黒々と般若心経が書かれてありました。

犠牲になった多くの人々を弔って書かれたものでしょう。深く胸を打つ光景でした。

写真を撮り損ねたのが残念です。

<写真説明> 女川原発――向こうに見える白い煙突が原発の排気口


 女川原発PRセンター:0.08μSv/h (0.4mSv/y 

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2012年10月 9日 (火)

行ってきました。見て来ました。<その6>――南三陸市防災対策庁舎--

 2012_206                                             

←―防災対策庁舎

赤錆びた

鉄骨だけが残っています


ここは遠藤未樹さんが「津波がきます。避難してください」とアナウンスしつつ亡くなったところです。

防災センターは完全に津波に壊され、いまは錆びた鉄骨を残すだけです。

この防災センターも津波の指定避難所になっていたそうですが、ここの屋上には相当数の方が避難して来て、亡くなりました。

結果としてはなんとも甘い、そして過去の経験に学ばない行政のあり方だったということになります。

勿論それはここだけではなく、日本全体がそうだったわけです。

誰が始めたとのか、正面入り口には祭壇が作られ、花が飾られお菓子や飲み物が備えられていました。

地元の人に混じって何人もの観光客らしい人が訪れていました。

 地元では、辛いから速く撤去して欲しいという声が強いそうです。

しかし、私はここに立ってみて思いました。

これを撤去すれば辛い記憶は忘れられるのだろうか。新しく生き直さなければならない地元の人たちにとって、これはその出発点ではないだろうか。

これが無くなったら、3.11以後に生まれた子ども達にこんな事があったんだ、君のお父さん、お兄ちゃん、お姉ちゃんおじいちゃん、おばあちゃんたちはこんな風に生きてそして亡くなったんだ、とどうやって伝えるのでしょうか。

津波というものはこんな怖いものだ、だから津波が来た時はこうして助からなければならない・・・・と話すとき、子どもは何をよすがに想像し理解したらよいのでしょうか。

私は被災者でないからこんな風に感じるのでしょうか。

この感じ方は無責任でしょうか。

でも、原爆ドームを見るとき、私達はここで何が起きたのかをより深く理解するのです。

同じ事を、気仙沼の山近くまで打ち上げられている大きな赤い船を見たときも感じました



壊れた堤防に花が供えられて2012_202

いました

―→

2012年10月 2日 (火)

行って、見て来ました《その5》南三陸町

栄子さんの車で海岸線を南下。

海岸沿いを南下しました。

殆ど瓦礫は積み上げられていましたが、家々は土台を残し玄関やお風呂のコンクリートはそのまま、車は通るものの人影はなく、まだまだこれからという感じです。

ときどき見られる仮設住宅は一律にグレーの箱のような長屋をそれこそぎっしりと並べてあります。

沢山建てるので当然の事ながら既に人が住んでいるところにはそんな土地はないので、随分人里はなれた場所に建てられていました。

生活環境としてはこれではかなりのストレスがたまるだろうと、容易に想像されるたたずまいです。

南三陸町です。

歌津地区では道路沿いに復興商店が並び、そこだけは賑やかにカラフルな幟が立てられ人の姿もみえました。後ろには仮設住宅群が立ち並んでいます。

何とか奮い立とうという気持ちが外からも感じられました。

孫に手作りの熊のバッグを買いました。

ここの側溝:0.05μSv/h, 0.4mSv/y 

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南三陸町歌津復興商店前バス停―→

2012年9月22日 (土)

行って、見て来ました《その4》~気仙沼

仙台の友人大槻栄子さんとお友達二人と共に気仙沼の「梅村マルティナ気仙沼FSアトリエ」という店に行きました。

梅村マルティナさんという日本在住のドイツ人女性が東北復興の為に被災地の皆さんと立ち上げた、ドイツTutto社のOpal毛糸を使って作った腹巻帽子とソックスを売るお店です。

50cmぐらいの長さの腹巻なのですが、真ん中で一ひねりして片方をひっくり返すとそれだけで帽子になる。のばしてスポッと被ると今流行の筒状のマフラー、腹巻もOKでしょう。

勿論全部被災者の方々の手編みで、毛糸のグラデーションの色合いがとても美しく、ひと目ひと目丁寧に編まれた帽子です。

これからずっと続く、とてもいい支援をしてくださっていると思いました。

一応集まって編んでいるのだそうですが、家族と一緒に居ることが大切というマルティナさんの考えで、仕事家を家にもって帰ることもあるそうです。

Webショップ:http://winenavi.jp/umemura

購入と問い合わせ:zinfo@winenavi.jp


夜の復興屋台村での魚料理とお酒は素晴らしく美味でした。

鮫の心臓とあんこうのお刺身!初めて食べました。

この屋台村の活気は素晴らしい。ここに居るとこちらがうきうきさせられるようでした。

さすがに、ここで放射線量を計る気にはとてもなりませんでした。

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2012年9月18日 (火)

行って、見て来ました《その3》→釜石 

釜石

六ヶ所村の後八戸→遠野に行き、25日朝釜石に行きました。

遠野ふるさと村入り口:0.87mSv/

遠野から釜石までの列車から見る景色は、どこか懐かしい。関西とは違うドンクササのようなものがある。

露草とひるがおが咲いている。

忘れていた懐かしい色合。

釜石に着く。

釜石駅前花壇付近:1.58mSv/

釜石は生徒からただ一人の死者も出さず「釜石の奇跡」と呼ばれる釜石東中学校、鵜住居小学校がありますが、一方で日本一の巨大な堤防が人々の目から海の変化をさえぎり、そのために海岸沿いで大変な犠牲を出したといわれています。

遠野で知り合った方から日本基督教団新生釜石教会のことをうかがい尋ねる。

震災で1階が水につかり大変な被害を受けたが、教会前に赤いテントを張り、人々が支援物資を受け取り、かつ背負わされてしまった心の「重荷を下ろす場所」としての重要な役割を果たしたそうです。それは僧侶などキリスト教以外の人も可能な限りの力が集まり、建物事態の壁も津波で落ちたなかで、どんな人をも憩わせる色々な意味で「壁のない教会」として存在していたというのです。

しかし残念なことに、たずねた時牧師は不在でお目にかかることはできませんでした。

教会の向かい小高い山になっていて上に薬師神社があります。途中まで登ってみました。

上り口に「津波避難場所」と書いた杭が立っています。勿論ずっと前からあるものだということは一目でわかります。

ここにもどんなにか沢山の人が津波から逃れて逃げ登ったことだろうか。想像するだに、必死になって逃げ登る年配者の苦しい息遣いが聞こえてくるようで、わたしまでもが息が苦しくなってくる。

       
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  薬師神社入り口→

新生釜石教会前:1.58mSv/

薬師神社:0.78mSv/

街を歩いてみる。

土台だけ残して何もなくなっている建物跡が沢山ある。営業を再開しているホテル、コンビになどもあるが、むき出しの土台や痛んで使われないビルの方が多い。以前あったはずの賑わいはまだまだ。

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一寸高台に市役所が見えるので行ってみました。

土曜日だったために市役所は閉庁していましたが、丁度休日出勤してきた職員に声を掛けてみました。

市が被災地図のようなものを発行していたらいただけないだろうか聞いてみると、しばらく待って欲しいと言って中に入って行かれた。

やがて、高校の頃はバスケットボールの選手だったに違いないと思われる背の高い女性が、市が作っている被災の資料を手に出てきてくださった。

しばらく彼女と話したが、彼女も被災者でお父さんと弟、それに家が津波に呑まれ、今はお母さんと二人で仮設で暮らしているという。休日のためかぴったりしたノースリーブのTシャツに膝丈のジーンズというラフなスタイルに、しっかり前を向いて歩き出している彼女の姿勢を感じました。

彼女は「家がなくなったぐらい大したことではない。命があるじゃないか、と思う」と言われる。

又こうも言う「人の命は思わぬ自然災害でなくなることもあるのだ。それなのに、戦争なんかで命を無くすなんてバカなことはない」と。

私は、心から感動し、まぶしい思いで彼女を見上げました。強がりでもカッコつけでもないことを、穏やかな声としっかりした瞳が物語っていました。

バスを待っていた時、どちらからともなく70歳半ばと思われる男性と話すことになりました。

私が奈良から来たというと、膝まで届きそうに深々と頭を下げ「遠くからよく来てくださいました」と仰った。

私はこのとき初めて、私のようなある種の物見遊山の客でも被災地を訪ねることが、ここの人にとっても意味のあることなのだと心から思えました。

2時のバスで大船渡から気仙沼に向かう。

2012年9月15日 (土)

行って、見て来ました《その2》→青森県六ヶ所村 

2012_146_3 三沢からバスをチャーターして六ヶ所村へ。

考えていたよりずっと遠くかれこれ1時間ぐらいの道のりだったでしょうか。

広大な米軍三沢基地の横を過ぎ、やがて立派な船が係留されている港に出ます。

この船が原発から出る核廃棄物を乗せてくる船。道はその港から直角に内陸に向かっているが、その道に平行にもう一本道があります。

核廃棄物を運ぶための専用道路です。     

以前は普通道を走っていたが、その度に反対運動のデモや座り込みがあったので、面倒になり専用道路を作ったのだそうです。もちろん立ち入りできません。

右手に木が繁る道をとり(つまり再処理工場が外から見え難いようにしてある)、やがて六ヶ所村核燃料再処理工場の門の前。(写真)勿論中に入ることはできなません。

その少し向こうにPRセンターがあり、私達はこのPRセンターを見学するのです。

PRセンターは円形の建物で、周囲360度が見渡せます。

向こうの白く塗られた再処理工場は、外目にはそれほど恐ろしいことがやられている所という感じは余り強くはありません。ただ、いろいろないかにも凄い装置があるらしいことが見て取れるのです。勿論周りは高い樹木が植えられ、人目につかない配慮は怠りなしです。

南の方に巨大な石油貯蔵基地があるのには驚きました。ここにこんなものがあるとは知りませんでしたから。国の貯蔵基地だそうです。全く勉強不足でした。

その右手にはこれまたものすごい数の風車。何処かの企業の発電用の風車だそうです。何かの原因で再処理工場の電源が喪失したらここから電気を貰うという予定がありそう。だとしたらこれ以上ないブラックユーモアになりますね。

センターの中は再処理の装置が1/4の大きさの模型が作られ、壁には再処理の行程等を詳しく書いたボードが張られています。子ども連れの若い親の為に色々なおもちゃも用意されています。さすがに丁寧で分かりやすく、しかし、福島の事故からどんな教訓を得、どんな対策をしたかについては、わずかに「二重三重に安全を強化しました」とあるだけ。

2012_167 ←左2012_170_2 (プレイスペース)

右→ (再処理装置の模型)

PRセンター3Fの線量は:0.6mSv/年    意外に低い。

帰りに通った六ヶ所村の役場はレンガ色のきれいな建物ですが、村自体は決して裕福にも活気があるようにも見えませんでした。

ただ後で、再処理工場ができたために今までかなり低かった高校への進学率が80%までにあげることが出来た。これは再処理工場のお陰だという声があると聞きました。

しかし、この議論はヘン。子どもの教育は国の教育行政の問題で、原発や再処理工場と引き換えに考えて良いはずはありません。